1998年10月14日
そんな彼女の場合 * 自己否定の裏
人は必ず他人にはない才能というものを持っていると私は思っているが、それは時に、その才能をうらやむという感情を生むものである。
その「うらやむ」という気持ちをどう対処するかでその人の器量がわかるものであるが、彼女はそれをすべて自分にぶつけて自己嫌悪に陥るタイプの人間である。人を決して非難することの出来ない人であるが故に、それはそのまま自分にはねかえってくる。
他人を傷つけてはいけない、と認識し、その分自分を傷つける人というのは一見「優しい人」と思われるかも知れないが、よくよく考えてみると、自分すらも大切に出来ない人間は結局他人を大切にしないものである。
人は決して人を傷つけずに生きていくことは出来ない。それは「自我」というものが存在するからであり、それをコントロールするには自分という本質をしっかり把握する必要がある。
彼女は「自分なんか」というのが口癖であるが、どうしてそんなことを"他人に言うのか私にははなはだ疑問である。「自分はこれだけ傷ついている」「自分はこれだけ情けない人間なんだ」ということをわざわざ他人に強調することがあるのだろうか?
彼女はおそらく、自己否定するという事がどういうことか知らないのである。
自分を否定するのは誰でも出来ることであるが、否定したからといって決して変わることがなく、変わろうとするとものすごく困難を要するのは実は「自分」という本質である。それをあえて他人にふれて回るというのは、「そんなことはない、私は私だ」という、本当は自分で自分に言い聞かせなければいけないことを他人から聞きたいのだと思っている。
人まかせにして、自分で困難を避けたいという甘えの何者でもない。
実際に私も経験しているからいえることであるが、自分を他人に評価してもらうことほど頼りないことはないのである。それが自分の本質に迫れば迫るほど頼りない。しかし、その本質に迫れば迫るほど自分のいやな面が見えてきて自己嫌悪に落ちるのは誰でも同じことであるが、それをあえて乗り越えると今まで自分を否定したのが莫迦莫迦しく思えることが多々ある。
彼女は「不運」にも、人にある才能をうらやむという行為で自分との相違を比較し、更に自己否定に拍車をかけているのであるが、それも自分という本質に真っ正面から向かった時に他人と自分を比較することがどれだけ虚しいことかは容易に解ることである。彼女はもっと自分を知らねばならない。「自分はこれだけ可哀想なんだ」ということを少なくとも他人にふれまわるうちは誰もカインの望んでいる言葉を言う者はいないだろう。それがどういう根拠のもとであろうともである。
自分に本当に厳しいものは自分を否定しないで、自分を慈しむものなのだから。
他人を傷つけてはいけない、と認識し、その分自分を傷つける人というのは一見「優しい人」と思われるかも知れないが、よくよく考えてみると、自分すらも大切に出来ない人間は結局他人を大切にしないものである。
人は決して人を傷つけずに生きていくことは出来ない。それは「自我」というものが存在するからであり、それをコントロールするには自分という本質をしっかり把握する必要がある。
彼女は「自分なんか」というのが口癖であるが、どうしてそんなことを"他人に言うのか私にははなはだ疑問である。「自分はこれだけ傷ついている」「自分はこれだけ情けない人間なんだ」ということをわざわざ他人に強調することがあるのだろうか?
彼女はおそらく、自己否定するという事がどういうことか知らないのである。
自分を否定するのは誰でも出来ることであるが、否定したからといって決して変わることがなく、変わろうとするとものすごく困難を要するのは実は「自分」という本質である。それをあえて他人にふれて回るというのは、「そんなことはない、私は私だ」という、本当は自分で自分に言い聞かせなければいけないことを他人から聞きたいのだと思っている。
人まかせにして、自分で困難を避けたいという甘えの何者でもない。
実際に私も経験しているからいえることであるが、自分を他人に評価してもらうことほど頼りないことはないのである。それが自分の本質に迫れば迫るほど頼りない。しかし、その本質に迫れば迫るほど自分のいやな面が見えてきて自己嫌悪に落ちるのは誰でも同じことであるが、それをあえて乗り越えると今まで自分を否定したのが莫迦莫迦しく思えることが多々ある。
彼女は「不運」にも、人にある才能をうらやむという行為で自分との相違を比較し、更に自己否定に拍車をかけているのであるが、それも自分という本質に真っ正面から向かった時に他人と自分を比較することがどれだけ虚しいことかは容易に解ることである。彼女はもっと自分を知らねばならない。「自分はこれだけ可哀想なんだ」ということを少なくとも他人にふれまわるうちは誰もカインの望んでいる言葉を言う者はいないだろう。それがどういう根拠のもとであろうともである。
自分に本当に厳しいものは自分を否定しないで、自分を慈しむものなのだから。
Posted by たおまさ at 12:46