1997年08月21日
智辯和歌山・夏の甲子園を制覇
第79回全国高校野球選手権大会最終日は、5万4千人の観衆で埋まった甲子園球場で決勝を行い、智辯和歌山が6対3で京都代表・平安を破り初優勝した。
和歌山県勢の全国制覇は1979年の箕島以来18年振り6度目。
智辯和歌山は3対3で迎えた8回、内野安打と四球などで掴んだ2死1、2塁から、中山が3塁線を破る2塁打を放ち、2点を勝ち越し。9回にも2死1、3塁から中谷が右前打し1点を追加。左腕藤谷から右の清水につないで、平安の6回以降の反撃を無得点に抑えた。
41年振り4度目の優賞を目指した平安は、2点を追う5回に1死満塁から、宮田のスクイズと奧井の2点適時打で3対2と逆転した。しかし、4日連投の左腕川口がリードを守れなかった。
智辯和歌山は甲子園の5試合全てが継投。この日も藤谷・清水のリレーで平安を6安打3点にかわした。カーブの制球が良かったという先発の変速左腕藤谷は「初回からきっちり抑えられ嬉しい。最後まで投げたかったが、6回が代え時だったと思う」と晴れやかな顔。優勝の瞬間をマウンドで味わった清水も「同点になっても硬くならずに投げられた」と力を出し切った顏つき。9回の2死2、3塁のピンチも「ヒット1本でもあと1点差だから気楽だった」と最後の打者を投ゴロに打ち取った。
小柄なヒーローがインタビュー台に立った。3塁線を破る殊勳の2点2塁打を放ったのは8番打者、中山。体重60キロはレギュラーで最も軽く、身長も172センチ。一緒に並んだ181センチの中谷に比べるといかにも小さいが、大きな仕事をやってのけた。3対3の8回、2死1、2塁。今大会ナンバーワン左腕の川口に対した中山は「追い込まれたらスライダーかフォークで打ち取られる。初球から思い切って打とう」と集中した。配球を見て「下位打者にはストレートで入ってくるはず」と狙いを絞った。
優勝を呼び込む一撃に、中山は塁上でベンチに向かって何度もガッツポーズ。「打ったのは内角の真っ直ぐ。今までにない嬉しさです」と快心の表情だった。
試合前に「今日は絶対に打つ」と気合いを込めていたという。今大会は打撃が好調だったが、準決勝は4度の好機に全て凡退。それでも8回は前の打者が打席に入ったときに林部長から「おまえが勝負だ」と言われ「昨日は全然打てなかったのに信頼してくれている」と感激し、「気分良く打席に入れた」と笑った。優勝が决まった瞬間、最初に抱き合ったのは仲のいい高塚。前日の晩に宿舎で話して決めていたそうで「約束が叶って良かった」と大喜びだった。
背番号「1」高塚がマウンドに上がる機会は決勝にもなかった。出番は1点を追う7回の1死2塁での代打だけ。それも中飛に倒れ、「川口は、今まで対戦した中で一番の投手だった」と同学年の本格派を讚えた。初戦の日本文理戦で先発して5点を失い、2回途中で降板したのが今大会唯一のマウンド。他の投手が好調とあって「投げられないモドカシサはない。今日も勝つことだけ考えて3塁コーチに入った」と我を押さえていた。
右肩、右脇腹の故障からの復活は果たせなかった。最後の夏は本人には不本意だったはずだ。それでも「県大会から一丸となって優勝でき、感無量です」と話すように、栄冠の味は他のナインと変わらない。将来の進路は明言しなかったが、「上で投げるところを皆に見て欲しい」というように投手を続ける意志は固い。やはり、このままでは終わりたくないのだろう。
敗れて爽やかだった。平安の川口の第一声は「正直言って向こうの力が上でした。やれるだけのことはやったし、胸を張って京都に帰りたい」。完全試合宣言など、マウンド以外でも話題の中心となった強心臟投手が、素直に完敗を認めた。
智辯和歌山打線は4日連投のエースに容赦なく襲いかかってきた。きわどい球をカットして粘り、しつこくバントで揺さぶった。「ねちっこくて、しんどかった。打たれた方がスカッとしたと思う」と強がって見せた。だが、すぐに「でも、コースに決められなかった自分の力がなかっただけ」と、きっぱりした口調で言った。炎天下の甲子園のマウンドを1人で投げぬいた。6試合で投球数は実に820球。疲労の色は隠せなかった。マウンドへ向かう足取りすら重い、そんな風にも見えた。「勝った負けたはともかく、やっと終わったという感じです」。この言葉が川口の苦闘の跡を物語っている。
4日連投というと、昨春の選抜大会で智辯和歌山に凖優勝をもたらしながら、投げすぎが原因で肩を壞した智辯和歌山のエース、高塚がオーバーラップする。「これからも野球を続けて、いろんな所で活躍したい」。こう話す川口の黄金の左腕が、この後も無事であることを祈るばかりだ。
智辯和歌山の強力打線ばかりが脚光を浴びていたが、投手力の頑張りも見逃してはならない。もっと突き詰めればこの計算できる投手力があったからこそ腰を据えて攻撃に專念できたのではないだろうか。
この決勝戦がそれを物語っている。4日連投で疲労の色が濃くなるばかりの平安・川口に対して、智辯和歌山には控え陣が待機。7回から切り札の清水を投入して防御を固め、勝負に掛ける態勢にしている。8回の勝越し点には、智辯和歌山の追い込み作戦の完備が大きく作用していた。今大会、川口一人の平安に比べ、智辯和歌山は5人の投手を繰り出している。その質もいいから、熱い層が夏の頂点に立った要因だろう。そして好リードで投手を生かした中谷捕手に、継投のタイミングが適確だった高島監督の判断力も光る。間違いなく智辯和歌山は霸者の資格を持っていた。
目尻の下がった優しげな目は、甲子園の話になると輝きを増す。高島仁・智辯和歌山監督。監督として春夏合わせて13度目の出場で、2度目の優勝。「甲子園でこんな結果を残せて、本当に恵まれている」と感謝の言葉を口にする。
日体大を卒業後、1972年に奈良の智辯学園で監督人生のスタートを切った。だが、80年に智辯和歌山に移ったとき、前校でのスパルタぶりが噂で広まり、およそ30人いた部員が10人足らずに減った。「和歌山に移って変わった。それ以来、自主性を促す方針で練習している」という。ただ、「練習は試合とイコールだ。練習をしっかりすれば答えは試合の中で出る」の信条は変わらない。チームにもそれはよく浸透している。
選手は名前の音読みから仲間内では「じん」と呼んでいる。「監督と選手はノックで結ばれている」が持論で、遠征時はマイクロバスを自ら運転する。昨年、1回戦負けを喫した選手権大会の決勝を選手と一緒に甲子園のスタンドで観戦し、「来年はおまえ達がこの舞台でやるんだぞ」と言い聞かせた。
試合中はベンチの前で仁王立ち。理由を聞くと「93年の夏、智辯和歌山で甲子園の初勝利を挙げた試合でベンチの前に立っていた。それ以来、何となく座れなくなった」と笑う。「よく『甲子園には魔物が住んでいる』と言われるが、私は1回出てから”中毒”になってしまった。入場行進を見ると総ての苦労が吹っ飛んでしまう」の言葉に、この人の甲子園への熱い思いが滲む。
大学時代に知り合った夫人との間に1男1女がいる。長女が中学校教諭で、長男も会社員ながら教員免許を持っているあたり、魅力的な父親としての姿が伺える。長崎県出身の51歳。この漢の育てたチームが今、深紅の大優勝旗を紀州路に持ち帰る。
智辯和歌山は3対3で迎えた8回、内野安打と四球などで掴んだ2死1、2塁から、中山が3塁線を破る2塁打を放ち、2点を勝ち越し。9回にも2死1、3塁から中谷が右前打し1点を追加。左腕藤谷から右の清水につないで、平安の6回以降の反撃を無得点に抑えた。
41年振り4度目の優賞を目指した平安は、2点を追う5回に1死満塁から、宮田のスクイズと奧井の2点適時打で3対2と逆転した。しかし、4日連投の左腕川口がリードを守れなかった。
智辯和歌山は甲子園の5試合全てが継投。この日も藤谷・清水のリレーで平安を6安打3点にかわした。カーブの制球が良かったという先発の変速左腕藤谷は「初回からきっちり抑えられ嬉しい。最後まで投げたかったが、6回が代え時だったと思う」と晴れやかな顔。優勝の瞬間をマウンドで味わった清水も「同点になっても硬くならずに投げられた」と力を出し切った顏つき。9回の2死2、3塁のピンチも「ヒット1本でもあと1点差だから気楽だった」と最後の打者を投ゴロに打ち取った。
小柄なヒーローがインタビュー台に立った。3塁線を破る殊勳の2点2塁打を放ったのは8番打者、中山。体重60キロはレギュラーで最も軽く、身長も172センチ。一緒に並んだ181センチの中谷に比べるといかにも小さいが、大きな仕事をやってのけた。3対3の8回、2死1、2塁。今大会ナンバーワン左腕の川口に対した中山は「追い込まれたらスライダーかフォークで打ち取られる。初球から思い切って打とう」と集中した。配球を見て「下位打者にはストレートで入ってくるはず」と狙いを絞った。
優勝を呼び込む一撃に、中山は塁上でベンチに向かって何度もガッツポーズ。「打ったのは内角の真っ直ぐ。今までにない嬉しさです」と快心の表情だった。
試合前に「今日は絶対に打つ」と気合いを込めていたという。今大会は打撃が好調だったが、準決勝は4度の好機に全て凡退。それでも8回は前の打者が打席に入ったときに林部長から「おまえが勝負だ」と言われ「昨日は全然打てなかったのに信頼してくれている」と感激し、「気分良く打席に入れた」と笑った。優勝が决まった瞬間、最初に抱き合ったのは仲のいい高塚。前日の晩に宿舎で話して決めていたそうで「約束が叶って良かった」と大喜びだった。
背番号「1」高塚がマウンドに上がる機会は決勝にもなかった。出番は1点を追う7回の1死2塁での代打だけ。それも中飛に倒れ、「川口は、今まで対戦した中で一番の投手だった」と同学年の本格派を讚えた。初戦の日本文理戦で先発して5点を失い、2回途中で降板したのが今大会唯一のマウンド。他の投手が好調とあって「投げられないモドカシサはない。今日も勝つことだけ考えて3塁コーチに入った」と我を押さえていた。
右肩、右脇腹の故障からの復活は果たせなかった。最後の夏は本人には不本意だったはずだ。それでも「県大会から一丸となって優勝でき、感無量です」と話すように、栄冠の味は他のナインと変わらない。将来の進路は明言しなかったが、「上で投げるところを皆に見て欲しい」というように投手を続ける意志は固い。やはり、このままでは終わりたくないのだろう。
敗れて爽やかだった。平安の川口の第一声は「正直言って向こうの力が上でした。やれるだけのことはやったし、胸を張って京都に帰りたい」。完全試合宣言など、マウンド以外でも話題の中心となった強心臟投手が、素直に完敗を認めた。
智辯和歌山打線は4日連投のエースに容赦なく襲いかかってきた。きわどい球をカットして粘り、しつこくバントで揺さぶった。「ねちっこくて、しんどかった。打たれた方がスカッとしたと思う」と強がって見せた。だが、すぐに「でも、コースに決められなかった自分の力がなかっただけ」と、きっぱりした口調で言った。炎天下の甲子園のマウンドを1人で投げぬいた。6試合で投球数は実に820球。疲労の色は隠せなかった。マウンドへ向かう足取りすら重い、そんな風にも見えた。「勝った負けたはともかく、やっと終わったという感じです」。この言葉が川口の苦闘の跡を物語っている。
4日連投というと、昨春の選抜大会で智辯和歌山に凖優勝をもたらしながら、投げすぎが原因で肩を壞した智辯和歌山のエース、高塚がオーバーラップする。「これからも野球を続けて、いろんな所で活躍したい」。こう話す川口の黄金の左腕が、この後も無事であることを祈るばかりだ。
智辯和歌山の強力打線ばかりが脚光を浴びていたが、投手力の頑張りも見逃してはならない。もっと突き詰めればこの計算できる投手力があったからこそ腰を据えて攻撃に專念できたのではないだろうか。
この決勝戦がそれを物語っている。4日連投で疲労の色が濃くなるばかりの平安・川口に対して、智辯和歌山には控え陣が待機。7回から切り札の清水を投入して防御を固め、勝負に掛ける態勢にしている。8回の勝越し点には、智辯和歌山の追い込み作戦の完備が大きく作用していた。今大会、川口一人の平安に比べ、智辯和歌山は5人の投手を繰り出している。その質もいいから、熱い層が夏の頂点に立った要因だろう。そして好リードで投手を生かした中谷捕手に、継投のタイミングが適確だった高島監督の判断力も光る。間違いなく智辯和歌山は霸者の資格を持っていた。
目尻の下がった優しげな目は、甲子園の話になると輝きを増す。高島仁・智辯和歌山監督。監督として春夏合わせて13度目の出場で、2度目の優勝。「甲子園でこんな結果を残せて、本当に恵まれている」と感謝の言葉を口にする。
日体大を卒業後、1972年に奈良の智辯学園で監督人生のスタートを切った。だが、80年に智辯和歌山に移ったとき、前校でのスパルタぶりが噂で広まり、およそ30人いた部員が10人足らずに減った。「和歌山に移って変わった。それ以来、自主性を促す方針で練習している」という。ただ、「練習は試合とイコールだ。練習をしっかりすれば答えは試合の中で出る」の信条は変わらない。チームにもそれはよく浸透している。
選手は名前の音読みから仲間内では「じん」と呼んでいる。「監督と選手はノックで結ばれている」が持論で、遠征時はマイクロバスを自ら運転する。昨年、1回戦負けを喫した選手権大会の決勝を選手と一緒に甲子園のスタンドで観戦し、「来年はおまえ達がこの舞台でやるんだぞ」と言い聞かせた。
試合中はベンチの前で仁王立ち。理由を聞くと「93年の夏、智辯和歌山で甲子園の初勝利を挙げた試合でベンチの前に立っていた。それ以来、何となく座れなくなった」と笑う。「よく『甲子園には魔物が住んでいる』と言われるが、私は1回出てから”中毒”になってしまった。入場行進を見ると総ての苦労が吹っ飛んでしまう」の言葉に、この人の甲子園への熱い思いが滲む。
大学時代に知り合った夫人との間に1男1女がいる。長女が中学校教諭で、長男も会社員ながら教員免許を持っているあたり、魅力的な父親としての姿が伺える。長崎県出身の51歳。この漢の育てたチームが今、深紅の大優勝旗を紀州路に持ち帰る。
Posted by たおまさ at 03:53