1997年08月10日

富士山ラプソティ

 何しろ田舎者のせいか、昔から富士山の大ファンだ。新幹線であれ飛行機であれ、富士の姿を見たら必ず拝む。従って富士の見える所へ遊びに行くとめちゃめちゃになる。見える度に拝むのでリズムが壊れる。あの美しい姿を四方から拝むと、その表情がそれぞれに違う、それがまた良い。

 「夜の頭は下を向くので、悩み事は夜するな。出来るだけ広い風景を見ながら、おてんとうさまの下で悩むように」と、かつて父が言った。それを忠実に守って、新幹線から富士山を拝みつつ、考え事をしてみた。確かに、くよくよしないから気持ちがいい。この雄大な山に比べて、おれの悩みの小せえ事、と思うから「ま、いっか」で済む訳だ。

 そういや、和歌山県内からも富士山が見えるらしい。地元のタウン情報誌が特集を組んでいるのを読んだことがある。理論的にだったか、実地調査を伴ったかははっきり覚えていないが、本当に見えるのなら私も一度拝んでみたいものだ。

 富士山は死火山だったか休火山だったか。富士山が形を変える程の大噴火はあり得ないと信じているが、あの美しいコニーデ式の山の形が変わっても、あの山を愛するだろうか、と自分に問うてみた。結論はイエスだった。いつの間にか、形から入って来たはずなのに、その存在感をこそ愛してしまったようだ。恋もまたかくや?あるいは情と呼ぶべきや?

 いずれにしてもこの国を悲しみながら愛するように、富士を永遠に思い続けるのだ。でも形は変わってほしくないな。どんなに下手な絵でも富士だけは分かるんだから。



Posted by たおまさ at 03:49