2006年05月12日

不必要な祭り

 先日、小中学校時代の同級生で神主の田中君と話す機会がありました。約二時間にわたって話題はあちこちに飛び交いながらもきわめて勉強になった。思い出話はともかく、彼の人柄が実に素敵でありまして、なるほど彼は「若」であると改めて大変惹かれました。

 さて、その話の中でお祭りを守るには、といった話が出たのです。田中君曰く、

「うちのはもちろん、できるだけ日本の祭りは残したいという運動をしてきたんだけど。つまり例えば白拍子の舞で踊り手の着物は現在人絹を使用している。どうせなら、公の手で援助してもらってせめて生絹にしてあげたい」と。

 だが

「政治として無理らしい。つまり、国が一宗教を援助するのは、憲法違反なんだと。」

 成る程、思想・宗教の自由をさまたげるってわけだな。へーえ、そんなものか、と。

「地鎮祭を公共団体が行うことは違憲ではないと国が認めた事があるっちゅう話だが、しかし、これとて宗教としての素地があってこそなのだ。そんな憲法云々をいうが、そもそも古来宗教と政治といったものは、切り離せるものではない代物だと思うがな。」

 などと言う。この意見は宗教家としての彼個人の意見ではあるけれども、確かに、唯物思想に染まらない限り、伝統としての習俗はこれからも生き続けるであろう事を考えると、あまり憲法を振りかざすのも、ある一面において寒い事もあるなあと思ったのでした。

 それにしても、昨今の権利運動の華々しさはどうですか。日照権で驚いたら、今度は嫌煙権。マイルドセブンが300円ですと?煙草の煙はイヤだという気持ち、煙草を吸うボクにもよく分かる。やはり、当然の権利主張なのだろう、という事も。

 しかし、ふと不安になるのは、外国で始まった一連の正当な権利運動に呼応して日本人まで立ち上がる。いや、それがいけない、などというのではなくて、でも昔から、我々は、集団生活のための、あらゆる忍耐をしてきたんじゃないんですか?

 自分を守るために他人を守る、つまり古くから言うところの「困った時はお互いさま」の精神とでもいいますか、お互いに、迷惑を、かけたりかけられたりのご都合主義だという人もありますが、それが「縁」とか「えにし」であったはずなのです。
 ガマンをする事はバカバカしい、という、正当な主張は、だがしかし同時に、我々の潤いの部分みたいなものまで追い落とそうとしている気がします。

 いなかの小さなお祭りが存続の危機にさらされているという話があります。「縁」を根拠に、昔から地域の人たちで続けられてきた小さなお祭りが、今、積極的に参加する人が減ってしまい、やむなく中止になったりしているそうです。宗教なんて、とか、テレビも取材に来ない、注目されてない、果てには、せっかくの休みなんだからやりたい事が他にある、そんな個人合理主義が、地域の「縁」をすっかり薄めてしまいつつある。

 合理的生活を血として持っている欧米人と、我々日本人との間の「習俗」の差を忘れ、都合の良い時ばかり欧米風になる、そんな種類の偽日本人は、こうして確実に増殖している。あと何年で、侵略者たちと入れ替わってしまうんだろうか、とか思う。

 いつの間にか思い上がってしまったのではないか、我々は。思い上がった人々が、それぞれに、思い上がって生きてゆく、少しづつだけども、確実に、ボクらの国は坂道を転がり始めてる。悲しい伝説が今、始まろうとしているんじゃないでしょうか。

 浴衣、アセチレン、花火、神楽・・・・祭りの季節がもうそこまで来ています。レジスタンスが興ってほしい。ボク達の国を、本当にボク達は守っていけるのでしょうか。
 いみじくも田中君がつぶやいた。

「不必要な祭りは、次第に消え行く運命を持っているのだ。貯水池のおかげで雨乞いの祭りが失われていくように」 

 ボク達の国は今、貯水池も持たずに、不必要な祭りになろうとしている。



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 難しい話をしようとしたわけじゃなく、この日曜日は和歌山市和歌浦・東照宮-片男波周辺で和歌祭りがありますから皆さんお揃いでどうぞ、と、そういう話をしたかったんですが。

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Posted by たおまさ at 08:52│Comments(0)Diary
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